第3章 被爆者救護
爆死した妻のために半年間喪に服した (昭和21年(1946) 撮影)
多くの研究資料が灰となり絶望感に打ちひしがれた博士は、目の前の新しい現実に立ち向かわねばならないことに気づき、救護活動に立ち上がった。そこには新たな課題、まだだれも研究したことのない病気、原爆症の研究が待っていた。
おびただしい原爆症患者、あいつぐ死亡者。
なんとか助けたいという思いで患者を探し歩き診察したが、とうとう自らも危篤状態におちいり、無念にも救護活動を打ち切らざるを得なくなった。
廃虚の中の浦上天主堂(昭和22年 末次教授撮影)
被爆した博士は、右半身に多数の硝子片切創を負い、特に右耳前部の傷は深く、右側頭動脈が切断されるほど重傷だった。滝のごとく噴き出す鮮血を、三角巾で縛っての負傷者の救護活動だったが、血が止まらず失血のため倒れた。
9月20日ごろ原子病の症状が現われ、傷が壊死し始め高熱が続き昏睡状態に陥った。薄れる意識の中で
「光りつつ 秋雲高く 消えにけり」
と詠む。
「それから今日まで病勢は順々に進んできた。今では原稿用紙をとってもらうことさえいちいち人に頼まねばならぬほどだ。それで患者を診るどころか、顕微鏡をのぞく力もない。しかし幸いなことには、私の研究したい原子病そのものが私の肉体にある。」
(永井 隆著「この子を残して」より)
博士の原爆症との闘いは、自らの肉体を実験台に供することで、継続されていく。